ぼくのいえ店主さだ(@bokunoieplus)です。
自分がゲイだど自覚し始めたのが、高校生の時だったんですが、先天的なものだったのか、環境が影響しているのかは分かりませんが、ぼくがどんな家族の中で育ったのかを書いてみようと思います。
ぼくは、一人っ子だから兄弟がいる事はすごく羨ましいな…
ぼくは姉が二人いるんだけど、いてくれてよかったな〜と思うよ!!
家族構成について
父
母
姉二人
末っ子長男としてぼくが生まれました。
小さい頃は、父の母(おばあちゃん)も一緒に住んでいました。
団地住まいで、中学生に上がる頃までは姉二人と同じ部屋で、寝るときは3段ベットの一番下で寝ていました。
自分の部屋が欲しくて、押し入れを自分の部屋代わりにして、今でも実家に帰ると押し入れの天井にマジックで【さだはるのへや】と書いてあります。
姉二人は自分の机を持っていたのですが、ぼくの机を置くスペースがなかった為、姉二人の机の間に本棚を置いてもらいそこの前に折り畳みのテーブルを置いて勉強などをしていました。
実家を出て、たまに帰るとよくこの空間で6人が生活できてたなと感じますし、子供部屋も、この空間でよくも3人が生活してたよな〜と感じます。
ぼくが小学生に上がる頃には、おばあちゃんは父の兄の家に行く事となり、中学生に上がるタイミングでぼくは念願の自分の部屋を手に入れました。
父
幼少期
小学生に上がるくらいまでは、家から会社に出勤していました。
社会人野球をしていたくらいの野球好きです。
ぼくの名前が貞治なのも、大の巨人ファンという事【王 貞治選手】と父の名前の漢字一文字が入っているという事で名前をつけてくれたそうです。
その父の期待には応える事はできず、ぼくは全く野球ができません。
毎年、お盆休みには家族で淡路にキャンプに行くのが恒例で、父と母は大の釣り好きでぼくも小さい頃から釣りを教えてもらっていました。
ぼくが幼稚園に入る前くらいの年齢の時に、下血が止まらなくなり、初めは小児科にて診てもらっていたのですが、兵庫県立子供病院へ入院する事となりました。
この時の事は、所々覚えているのでいつか書いてみようと思います。
大きくなってから聞かせてもらった話では、両親がお医者さんに言われた言葉は「小児ガン」の可能性があるという事。
この診断を聞いた時に、母は初めて父が泣く姿を見たそうです。
小学生から成人するまで
この頃から、出張が増えほぼ家に居る事はありませんでした。
たまに、本社に用事がある時に家に帰ってきたり、お盆やお正月に顔を見るくらいな感じです。
小学生の時に、両親が離婚するような話となりどっちと生活をするのかを聞かれた記憶があります。
もし、そうなっていれば迷わず母を選んでました。
その時は、離婚とはならなかったのですが、出張先で別の家族がいる事は何となく知っていました。
結果、ぼくが大人になったある日、母に「離婚しよう」というメールが送られてきました。
熟年離婚というやつです。
それ以来、どうしてもその終わらせ方に納得が出来ず、父の事を許せずにいます。
父のおかげで不自由なく生活させてもらえた事は、大人になってより深く感じるのですが、どうしても許す事ができないでいます。
母
ぼくが一番尊敬している人は母です。
小さい頃から、今でも大好きで一番大切な存在だと感じます。
ぼくが末っ子 長男という事もあり、母にとっても特別な存在だったのかもしれません。
姉二人には、あんただけほんまに昔っから特別扱いよな〜と、よく言われたものです。
自分でもそう感じるくらい、大切に育ててもらいました。
「勉強しなさい!」みたいな事は言われた事がなくて、自由に育ちました。
「人に迷惑を掛けないこと」
「人のものを盗まないこと」
この二つの事を徹底して言われていた気がします。
自分がやりたいと言う事は、なんでもやらせてくれて、辞めたいと言った時も強制された事はありません。
小学生の頃までは、ぼくが悪さをすると布団叩きで座れなくなるくらいまでお尻を叩かれていました。
仲の良い友達の間で、ジッポライターのオイルを持ち歩いて火をつける遊びが流行った時期があり、当時の一番の親友がぼくの家の隣のインターホンをライターで燃やして溶かしてしまったのです。今、考えるとアホ過ぎますね。
それを見つけた母親に、誰がやったかを言いなさい!!と問い詰められ、黙っているぼくのお尻を永遠と叩かれた時がありました。
母が、その日に遊んでいた友達の家に電話をかけて、犯人はバレる事となります。
小学生・中学生の時は、今思い返すと一歩間違えば大事故【犯罪】になるような事を平気でしていました。
決して不良だったわけでは無いのですが、ぼくの通っていた高校は各エリアからやんちゃな子が集まるような学校でした。
勝手に原付の免許を取りに行き、バイトをして原付も自分で買いまいた。
よく、仲の良い友達たちが原付で団地前の広場に集まっていたことや、ぼくがタバコを制服で吸っていた事など…
後で、母に聞いた話では当時 近所の人たちに色々と言われていたそうです。
知らない人達が見ると、ただのガラの悪い学生が居て怖い。
になってしまいますが、母はぼくの友達は根はいい奴ばかりだという事をわかってくれていたので、「近所の目があるから」みたいな事は一度も言われた事がありませんでした。
心から、母の息子でよかったと思いまし、自慢の母です。
たまに地元に帰って会うと、膝を悪くして杖をついて歩いていることや、歳とったな〜と実感する事が増え、悲しいとも違う何とも言えない気持ちになる事があります。
まだまだ元気でいてくれよな〜
おかん…
上の姉
上の姉とは歳が離れ過ぎていて、今一体何歳になったのかすら分かりません。
小さい頃は可愛がってもらっていたとは思うのですが、上の姉との思い出は殆ど記憶にない感じです。
今、思うと高校を中退したあたりから心身のバランスを壊し始めていたと思うのですが、病名としては【統合失調症】を患っています。
一時期は、症状が酷く精神病院に入院していました。
ここ一年くらいは、だいぶ安定していますが、何年もの間一歩も家を出ない生活は当たり前。
幻覚、幻聴などが酷い時期は母に暴力を振るう事もありました。
病気だから…と自分に言い聞かせても、実家に帰って合うとイラッとしてしまう事が多々あります。
今、実家では母と上の姉の二人暮らし。
母の体と心が壊れてしまうんじゃないかと心配になることも多いです。
ぼくが酷い鬱になり、仕事を辞め実家に戻って廃人となっていた時、母は統合失調症の姉と鬱のぼくを二人面倒見てくれていたのです。
本当に、大変だったと思います。
この時も、姉の症状はあまりよくはありませんでした。
おばあちゃんが亡くなり、お葬式当日。
姉が急に行かないと言い始めました。
何故、そこでぼくがキレてしまったのかは今では思い出せない感情なのですが、姉を殴り「とっとと準備しろや!おとんにこんな時まで魅惑かけんなや!」みたいな事を言って服をひっぱり上げて引きずってしまったのです。
もともと、上の姉はぼくの存在が怖いようですが、この一件を期により怖くなったようで、実家に帰る事もあまり良く思っていないそうです…。
下の姉
下の姉とは2つ違いで小さい頃から、今でもめちゃくちゃ仲がいいです。
ぼくに彼氏が出来ても、一緒に遊びに行くくらいです。
小さい頃は、姉と近所の女の子達と遊んでいました。
男の子達と遊ぶようになったのは、小学校 高学年になってからなので、それまではずっと下の姉と遊んでいた気がします。
お小遣いで【なかよし】【リボン】
※少年ジャンプの女の子版みたいなもの
を一冊ずつ買って一緒に読んだりしていました。
姉が学年2つ上という事もあり、中学一年生に上がった時も先輩に可愛がって頂きました。
子供3人の中で一番やんちゃしていたのは下の姉でした。
バツイチですが、唯一結婚して子供もいるので、ぼくが親に孫の顔を見せてあげれない分、姪っ子がいてくれてよかったな〜と感じます。
姪っ子も24歳になり、今ではぼくと同じ大阪に住んでいます。
実家から原付で15分くらいのところに住んでいる為、母の事も姉が近くにいてくれている事は心強いです。
ぼくの場合、小学校(高学年)になるまでは、女の子と遊び女の子のする遊びばかりをしていました。
でも、好きの対象は女の子だった気がします。
先天的にゲイだったのか?
環境が影響したのかは分かりませんが、ぼくは生まれ変わってもゲイでありたいとは思っています。
何より、おかんの息子として生まれてきたいです。
色々ありますが、姉が二人いる事にも感謝しています。
自分が、今ここにいる事は奇跡の連続なんですよね〜。
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